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真田丸のキャスト情報、戦国武将の真田信繁(幸村) [キャスト(武将)]

【真田丸とは・・】

「真田丸」とは豊臣家が滅亡する「大阪の陣」で真田信繁(幸村)が

大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に「真田丸」

呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて、先鋒隊に打撃を与え、

徳川勢を撤退させた出城です。

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【真田信繁(幸村)の出生】

永禄10年(1567年)~慶長20年5月7日(1615年6月3日)

真田昌幸の次男として生まれ、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての
武将です。

「真田幸村(さなだ ゆきむら)」の名で広く知られています。

江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、
3500の兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込みました。
真田幸村銅像.jpeg
↑ 真田丸の跡といわれる三光神社の境内
幸村と言う名は、
死後に軍記物や講談や小説などが創作されて、真田十勇士を従えて
宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将として語られるようになりました。



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信繁(通称・幸村)は【人生の大半が人質人生】

大阪の陣において、家康を追い詰め、日本一の兵と称賛された真田信繁(幸村)
ですがその前半生のほとんどは人質生活でした。

武田氏滅亡後、家康と対立した昌幸(信繁の父)が上杉景勝を頼ったため、
信繁は上杉家の人質になり、景勝とは心を通わせる中になりました。

その後、真田家は豊臣秀吉に臣従し、信繁はその馬廻(親衛隊)となり、
大阪でさまざまな人と交流することになります。




【関ヶ原の合戦】

慶長5年(1600年)は天下分け目の東西の戦、関ケ原の合戦でした。

秀吉死後の政は、
五大老、五奉行で行われていました。

五大老とは、徳川家康、上杉景勝、宇喜多秀家、前田利家、毛利輝元の5大名です。

そして、
大老同士の戦が行われ、徳川家康(東軍)は上杉景勝(西軍)討伐の兵を起こします。

信繁は、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に
西軍に加勢します。

しかし、
妻が本多忠勝の娘(小松殿)のため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになります。

東軍のうち、徳川秀忠(家康の三男)勢は中山道制圧を目的として進軍します。

しかし、昌幸と信繁(幸村)は居城上田城に籠り、秀忠の大軍を城に立て籠もって
迎え撃ったのです。(第二次上田合戦)

少数の真田隊に手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去りました。




【天下分け目】

三成率いる西軍は、
9月15日、徳川軍主力といえる秀忠率いる3万5千の兵の到着以前に
関ヶ原で敗北を喫します。

昌幸と信繁は、本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところでしたが、

信之とその舅である本多忠勝の取り成しで紀伊国九度山に配流を
命じられるにとどまりました。

蟄居中の慶長16年、関ケ原から11年後(1611年)に父・昌幸は死去します。

慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗ります。




【大坂入城】

慶長19年(1614年)、
方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化します。
(家康が仕掛けた事件)

大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁
助けを求めます。

信繁は、
国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して
子の大助幸昌と共に大坂城に入ります。

大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一しました。(真田の赤備え)




【大坂冬の陣】

真田幸村出丸城跡(大阪府大阪市天王寺区心眼寺)
真田幸村.jpg
慶長19年(1614年)に、
開戦した大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に真っ向から
反対します。

積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張しますが、
結局受け入れられることができません。

結果、大坂城への籠城策が決定すると、
信繁は真っ先に豊臣秀吉が生前、築城の際に悩み込んだ大坂城の唯一の

弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に「真田丸」と呼ばれる
土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて、
先鋒隊に打撃を与えたました。

徳川勢は撤退に至るのです。




【日の本一の兵(ひのもといちのつわもの)】

この戦闘で真田信繁は、初めてその武名を天下に知らしめることとなります。

しかし、冬の陣の講和後、この「真田丸」は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に
取り壊されてしまいます。

そして豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として
信繁の叔父である真田信尹(のぶただ)を派遣し、「十万石下さるべく候旨」条件を
提示し寝返るよう説得します。

信繁がこれを断ると、
家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出ますが、

「この信繁、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と
再びはねのけるのです。




【大坂夏の陣】

慶長20年(1615年)年の
大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加します。

伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させます。

指揮権は、大坂城内の豊臣譜代の大野治長が持っていました。

この戦では遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれないと嘆き、討死を覚悟します。

ここで真田隊は殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、

豊臣全軍の撤収を成功させます。

真田信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接の出陣あるのみと
直訴したが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は困難を極めました。




【信繁の覚悟】

これを受けて信繁は、
「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ」と
つぶやき、、真っ正面から真一文字に家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行した
のです。

真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという話も伝わります。

奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなります。

しかし数度に渡る突撃戦により部隊は消耗し、兵力で勝る徳川勢に追い詰められ、

ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていた

ところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見されてしまいます。

そして、「わしの首を手柄にされよ」

最後の言葉を残して討ち取られました。享年49歳の武将人生でした。
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